弥生をめぐる話

東京大学本郷キャンパス構内にあります、「東京大学総合研究博物館」にて『弥生誌 向岡記碑をめぐって』が開催されています。(2011.4.29〜6.26)
 
東京大学 本郷キャンパスには、東京大学附属病院を含む「本郷地区」、地震研究所を含む「弥生地区」、「浅野地区」があります。東大本郷の名所であります"赤門"や"三四郎池(育徳園心字池)"は本郷地区にあり、元・加賀藩邸大屋敷の名残です。平成 12年(2000.12.5.20~平成7.9)には東京大学総合研究博物館において『加賀殿再訪―東京大学本郷キャンパスの遺跡』が開催されています。
弥生地区、浅野地区には水戸藩邸中屋敷がありました。幕末には"水戸烈公"と称された徳川斉昭が住まい、「向岡記碑」を残しました。「向岡記碑」を由来に近辺の地名は明治時代に「向ヶ岡弥生町」と名付けられました。そしてこの地から発掘された縄文式土器ではない新たなかたちの土器に"弥生式土器"と名付けられ、「弥生時代」の名称が生まれました。
この展覧会では今まで採り上げられることが少なかった東京大学本郷キャンパス「弥生地区」、「浅野地区」に残された水戸藩の名残であります「向岡記碑」を中心に、東京大学埋蔵文化財調査室が調査し、出土した埋蔵文化財(弥生土器、ガラス玉、陶器ほか)を展示しています。有坂鉊蔵、坪井正五郎、白井光太郎の 3人が発掘した最初の弥生式土器(重要文化財)、弥生時代方形周溝墓の表面を剥ぎ取った巨大な土型など普段見ることのない埋蔵文化財が展示されています。
この展覧会では、本来は歴史研究の裏方である、"修復と保存"を全面に採り上げた展示になっています。
東大総合研究博物館
 
弥生誌 向岡記碑をめぐって東京大学 総合研究博物館
<http://www.um.u-tokyo.ac.jp/exhibition/2011YAYOI.html>
概要: <http://www.um.u-tokyo.ac.jp/exhibition/2011YAYOI_description.html>
開催期間: 2011年 4/29(金)〜6/26(日)
開館時間: 10:00 - 17:00(入館は16:30まで)
入館料: 無料
場所: 東京大学総合研究博物館 <http://www.um.u-tokyo.ac.jp/
アクセス: <http://www.um.u-tokyo.ac.jp/information/map.html>
お問合せ: ハローダイヤル03-3272-8600
 
主催:
東京大学総合研究博物館 <http://www.um.u-tokyo.ac.jp/>
東京大学埋蔵文化財調査室 <http://www.aru.u-tokyo.ac.jp/>
協力:
公益財団法人 徳川ミュージアム <http://tokugawa.gr.jp/>

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* 館内は撮影禁止ですが、東京大学総合研究博物館の許可を得て撮影しました。(2011.4.29)
弥生誌 向岡記碑をめぐって
 

「芸工展2010」参加企画のひとつに、根津の「ギャラリー ゆり音」(伝世舎)にて『修復のお仕事展 伝えるもの・想い II』がで開催されています。(2010.10.9〜17)
修復のお仕事展 伝えるもの・想い II』開催期間中の週末に、関連企画として『水戸藩駒込邸と弥生時代の遺跡見学会』を開催しています。(2010.10/9、10、11、16、17)
 東京大学 埋蔵文化財調査室の原 祐一さんのガイドで、根津駅前に集合し東京大学本郷キャンパス内・浅野地区を地形や遺構を辿りつつ歩きながら、旧浅野伯爵邸のこと、過去に発掘調査された弥生時代の遺跡弥生土器のこと。そして、独自に調査研究されている水戸藩中屋敷のことなどを解説して頂きます。
向ヶ丘碑
 
水戸藩駒込邸と弥生時代の遺跡見学会
開催日: 雨天決行
2010年 10/9(土)、10(日)、11(月 祝)、16(土)、17(日)
時間: 11:00 - 12:00
参加費: 無料
集合場所: 東京メトロ 千代田線「根津」駅 1番出口
見学場所: 東京大学 浅野地区
地下鉄 千代田線「根津」駅 1番出口 > 清水御門跡 > 庭園跡 > 御殿跡 >「向岡記」碑 > 方形周溝墓(武田先端知ビル) > 弥生二丁目遺跡 >「弥生式土器発掘ゆかりの地」碑
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ギャラリーゆり音■ 修復のお仕事展 伝えるもの・想い II(伝世舎
http://ameblo.jp/denseisya/entry-10663382411.html
開催期間: 2010年 10/9(土)〜17(日)
時間: 11:00 - 18:00(最終日: 17:00迄)
場所: ギャラリー ゆり音 <http://www.denseisya.com/gallery/>
住所: 文京区根津 2-19-8

ギャラリーゆり音
 

 平成 20年(2008)8月、東京大学 130周年記念事業「知のプロムナード」の一環として、それまで本郷キャンパス浅野地区の一隅に置き忘れたように建っていた「向岡記[むかいがおかのき]」碑が、破損部修復と保存処理が施され、新たな解説板とともに、浅野南門、情報基盤センター通路脇に移築されました。
浅野南門


現在の東京大学本郷キャンパス・弥生地区〜浅野地区の大部分は江戸期まで、水戸藩中屋敷(駒込邸)でした。上野寛永寺領を「忍岡[しのぶがおか]」と呼ばれるのに対し、"向かいの岡"という意味から「向丘[むかいがおか]」と、古くから呼ばれていました。水戸藩駒込邸の中でも浅野地区のあった場所は、忍岡から不忍池、そして江戸湾をも見渡せる風光明媚な場所で、原 祐一さん(東京大学埋蔵文化財調査室)の研究成果では、藩主家族の住む殿舎と庭園が在った場所であろう、と新たな資料から推定されています。
徳川斉昭は、この見晴らしのよい向丘の地から、文政 11年(1828)3月 10日、数え年で 29歳を迎えた誕生日にこの碑を建立しました。
向岡記碑


向岡記[むかいがおかのき]」の碑

向岡記[むかいがおかのき]」碑は、平成 20年(2008)、東京大学 130周年記念「知のプロムナード」の学内整備に伴い、碑の破損部分の修復、保存処理を施し、情報基盤センターに設置、展示したものである。
 碑は、後の水戸藩 9代藩主 徳川斉昭の自撰自書で、寛永寺の寺領「忍岡[しのぶがおか]」の向かいの「向丘」に位置した水戸藩中屋敷(駒込邸)に建立された。駒込邸は、、現在の本郷地区の北端、浅野地区、弥生地区と住宅地に該当し、藩主の隠居所、藩士の長屋、上屋敷の被災時は避難所などに土地利用された。
 碑の石材は、茨城県産の寒水石[かんすいせき]の転石が用いられている。題額「向岡記」は極めて珍しい「飛白体[かすれたい]」で、碑文は草書体、637字からなり、凹凸部分や割れ部分を避けて丁寧に勢いよく彫られている。斉昭は「文政十萬梨一登勢止移布年能夜余秘能十日」[文政 11年(1828)弥生(3月)10日]、「向岡[むかいがおか]」の由来を碑に記し、文末に

「名尓進於不 春爾向賀 岡難連婆 余尓多具肥奈岐 華乃迦計哉」

(名にし負ふ 春は向かひが岡なれば 世に類無き 華の影かな )

と詠んでいる。
 碑が建立された殿舎と庭園のあった場所は、現在の浅野地区と考えられる。碑文の「咲満他留佐九良賀本迩志亭」(咲満たる桜が本にして)より、水戸徳川氏の華やかな大名庭園が想像できる。

 明治 5年(1872)に名付けられた「本郷向ヶ岡弥生町」の町名は、碑文の「夜余秘」(弥生)からとられたものである。明治 17年(1884)、東京大学の学生であった有坂 鉊三[ありさか しょうぞう]らによって弥生町で発見された土器は、後に町名から「弥生式土器」と命名されるが、「弥生式土器」の名称の本家本元は、町名の由来となった「向岡記」碑なのである。
「向岡記」碑は、明治 20年(1887)、この地に移転した浅野家の所有となる。昭和 16年(1941)、浅野家の移転に伴い、昭和 17年(1942)5月、浅野家当主 浅野長武氏より、碑と拓本が本学へ寄贈された。工学部 9号館北の共済寮庭園に置かれていた碑は、工学部 10号館建設に伴い同館西側に移され、今回、当所に設置された。本郷地区には赤門、三四郎池など、加賀藩の遺構が残されているが、駒込邸の痕跡は、明治時代以降の官有地化と宅地化、大学建設により跡形もなく破壊されてしまった。この地に水戸藩駒込邸があったことを知る事がでる唯一の文化財が「向岡記」碑なのである。

 東京大学 東京大学埋蔵文化財調査室


拓本 解説にありますように、碑は茨城産の「寒水石」と呼ばれる白い大理石を使用し、自然に出来た凹凸を避けながら、書かれているところから(恐らくは)朱筆で斉昭が直に書かれたのであろう、ということです。また、題額に「飛白体[かすれたい]」と呼ばれる珍しい書体を用い、本文には草書体と万葉仮名を交えた美しい文章からも、斉昭の教養の高さが窺える、とのことです。
文の内容は、向ヶ丘の地が徳川家と関わりの深い場所であり、古くから知られた場所であったことを歴史を踏まえて述べられています。
 図は、横山 淳一氏によって写しとられた拓本を元に、横山氏自ら、刻銘を復元したものです。また石碑の分析、修復・保存に関する助言には、塩原 都氏(いずれも日本石造文化学会メンバー)が協力されています。

向岡記碑


■ 参考文献:
「『向岡記』碑の設置工事 附遍: 徳川斉昭と「向岡記」碑
 - 東京大学浅野地区「向岡記」碑の調査 20 - 」
  原 祐一(東京大学 埋蔵文化財調査室)

 採り上げるのが大変、遅くなってしまいましたが、去る 2008年 8月 8日(金)、「向岡記」碑の移設・設置作業が行われました。
「向岡記」碑は、水戸藩主 徳川斉昭が建立し、弥生の地名の由来となる碑です。後に同地区より、新時代の土器が発掘されたことにより「弥生(式)土器」、ひいては「弥生時代」の由来ともなります。

 2008年 2月 1日、コンクリート基礎の除去作業のため東京大学浅野地区から賢崇寺(港区元麻布)へ運ばれたまま、文京区弥生に「向岡記」碑が失われて約半年が経ちます。(2008/7/16撮影)

向岡記碑拓本 銀座洋協ホール(中央区銀座)で開催された「第 18回 自遊書展」(2008/7/30〜8/2)に於いて、表装された「向岡記」碑の拓本が特別展示されました。自遊書展主宰者であり、「向岡記」碑の拓本をとられた横山淳一さん、表装をされました垂水李さんらが参加する展覧会でした。

 12月 12日、朝から、小林石材工業による「向岡記」碑の掘り出し作業が行われました。

作業の際に使用された「箱ジャッキ」(1966年製)です。
箱ジャッキ

 12月 2日(日)、午前中の集落研究会/a>を離れ、午後からは東京大学埋蔵文化財調査室の原祐一さん、東京大学広報センターの細谷さんと共に、浅野地区・「向岡記」碑へ。塩原都氏(日本石造文化学会)立ち会いの下、横山淳一氏(日本石造文化学会)による拓本作業を見学しました。
向岡記碑の拓本

拓本作業は 2007年 3月 18日に一度行われましたが、天候などの環境が悪かったことと、碑の修復(洗浄&コーティング)作業後の状態比較を兼ねて、再度の拓本作業となりました。

「向岡記」碑の保存(4)

 先週、「向岡記」碑の洗浄作業が行われ、随分と綺麗になりましたが、本日は碑のコーティング作業が行われました。
午前中に碑の表面に樹脂を塗布しました。午後、コーティングが乾いた後にヒビや溝などをパテを埋めて補修する作業が行われました。
向岡記碑


補修のやり方には二通りの考え方があり、補修ヶ所を目立たなく直す方法と、あえて補修ヶ所をわかりやすく直す(補修ヶ所に無駄な注意を惹きつけさせないため)方法があるそうです。

「向岡記」碑の保存(3)

 東京はここ一週間前後でめっきり寒くなりました。東京大学本郷キャンパス、人気もまばらな浅野地区の西側。そのまた片隅の、工学部 10号館と液体窒素貯蔵タンクに挟まれた、陽の当たらないの一画では「向岡記」碑の洗浄が本日行われていました。
石碑の洗浄

原 祐一(東京大学埋蔵文化調査室)、塩原 都(a href="http://www.nihonshuji.jp/sekizou_page.html">日本石造文化学会)さん、武蔵野文化財修復研究所の方々です。

私がお邪魔したのはわずかの時間でしたが、武蔵野文化財修復研究所の方々が石碑裏面に張り付いていたツタの吸盤の除去と全面の消毒洗浄をされている様子と、原さんと塩原さんに説明を伺いました。
石碑洗浄

塩原氏によると、石碑は常陸寒水石(大理石)で、第 9代水戸藩主徳川 斉昭[なりあき]が朱墨で石に直に書かれた碑文から、彫られたものであろう、とのことです。
本郷キャンパス内でも、本郷地区には旧加賀藩の建造物(赤門、三四郎池)が残され、親しまれてているのに対して、弥生・浅野地区に於いて旧水戸藩を偲ぶ唯一とも言うべき石碑であることからも保存の価値は大きいと思われます。
今後、洗浄された石碑は基礎と共に掘り出され、石碑表面は樹脂による保護対策が施されます。その後、2008年春頃には同じく浅野地区・武田先端知ビルに解説板とともに展示される予定です。


■ 東京大学埋蔵文化調査室
http://www.aru.u-tokyo.ac.jp

■ 日本石造文化学会

■ 武蔵野文化財修復研究所
http://www.musasinobun.com/

「向岡記」碑の保存(2)

 原祐一(東京大学埋蔵文化調査室)さんが日本石造文化学会の協力で調査したところでは、「石碑の石質は良好であるものの、碑文は摩耗、風化し、判読が困難」であり、所々「新たな破損が発見」されました。
確かに素人目で見ても文字を認識出来る部分と不明な部分があります。もっとも教養がないので、確認出来る文字ですら達筆な書体から文字を判読するのは困難ですが。
大正 8年(1919)に発表された拓本がありますが、今回の「向岡記」碑調査にあたり、新たに拓本が取られました(2007/3/18)。拓本の採取方法が違うこともありますが、判読しにくくなっており、約 80年の歳月でやはり風化が進行していることが再確認されたようです。

「向岡記」碑は水戸藩主水戸斉昭の自撰自書から作られた碑であり、その一文である、

ことし文政十余り一とせといふ年のやよいの十日 さきみだるさくらがもとにかくはかきつくこそ

から、現在の(弥生町〜向丘弥生〜)弥生という地名の発祥となりました。この碑文は実際には以下のような万葉仮名で書かれいるそうです。

今茲文政十萬梨一登世止移布年能夜余秘能十日咲満他留佐九良賀本迩志帝可丘波可伎通孔類二許會

今ここに文政十まり一とせといふ年のやよひの十日咲き満たるさくらが本にしてかくはかきつるるにこそ

 横山淳一(日本石材文化学会)分析

この"夜余秘"を探してみましたが、確認するのは難しく、"夜余秘"に続く"能十"を発見。そこから上の部分を撮影した画像の影と、「向岡記」碑資料からなぞってみました。
非常にわかりにくいですが、左は拡大しシャープをかけた画像。右はわずかに残る影(刻跡)を、確認出来る限りになぞりました。赤字が"夜余秘(やよひ)"の一部です。
碑の拡大 夜余秘


 旧水戸藩の土地が「弥生」と名付けられ、縄文式とは違う土器の発見から、「弥生(式)土器」、「弥生時代」の名称が生まれました。昭和40年(1965)には、一度は消えかかりながらも住民らの反対運動を成功させ、取り戻した「弥生」の地名。
その由来たる一枚の石碑は、原祐一(東京大学埋蔵文化調査室)さん、日本石造文化学会による調査報告の成果により、現在東京大学が進める「知のプロムナード」事業の一環として、屋内の新たな設置場所へ移されることになります。

□ 参考文献:
「東京大学浅野地区「向岡記」碑の調査」1〜4 2006・2007年
 原祐一(東京大学埋蔵文化調査室)
 協力: 日本石造文化学会


関連リンク:
■ 知のプロムナード(東京大学
http://www.130ut.pr.u-tokyo.ac.jp/promenade/

■ 東京大学埋蔵文化調査室
http://www.aru.u-tokyo.ac.jp

■ 日本石造文化学会

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