町の歴史

光源寺 駒込大観音。昨年の今頃は「水族館劇場」がやってきて、この広場に大きな野外テントを作っていました。
今年の光源寺 駒込大観音は一見何もない広場です。
光源寺
 

・・・<略>・・・年一回東京の駒込大観音(光源寺)で本公演を上演する水族館劇場は、先述の通り、3ヶ月近く境内を占拠する。大観音での上演は10年におよぶが、住職は単に劇団を応援するためだけに彼らを受け入れてきたわけではない。水族館劇場の公演を通して、光源寺という場とは人々が集う場なのだということを近隣住民に知ってもらい、将来なにか大きな災害が生じた際のセーフティー・スポットとして寺を機能させたいという思いがあるのだ。・・・<略>・・・
 
■ 「広場をつくる・広場を動かす―日本の仮設劇場の半世紀―展」開催にあたって
梅山 いつき/演劇博物館助手
<http://www.yomiuri.co.jp/adv/wol/culture/110112.htm>

 
 毎年、7月 9日、10日には「駒込大観音 ほおずき千成り市」が開催されます。光源寺住職ご家族、近隣住民、地元商店街、福祉施設、水族館劇場劇団員、縁あって集まった人びとの手で祭りが作られます。一番の開催の理由は、緊急時・災害時に備えて普段から顔見知りを多く作り、助け合えるように、との想いから始まっています。「駒込大観音 ほおずき千成り市」ではバケツ・リレーのような消防訓練がイベントのひとつとして行われます。飲食コーナーの「萬福食堂」も、大勢の人間が手分けして大量の食事を作るノウハウが蓄積されています。
 
 東北大震災後、「ジャパン・イスラミック・トラスト[Japan・Islamic・Trust]」(豊島区)の支援を応援するかたちで、「光源寺」に定期的に有志が集まり、支援物資の用意と手伝いをされています。
たとえば、おにぎり。3月26日(土)には米 60キロで 1,219個、4月2日(土)にも 1,220個のおにぎりが作られています。
詳細と映像は、谷根千工房の森 まゆみさんがブログで報告されています。地元の方々による約 1,200個のおにぎり作りの映像は必見です。
おにぎりにぎり隊森まゆみ ブログ
<http://www.yanesen.net/mayumi/?p=1156>
東北大震災後、被災地や谷根千で考えられたこと、感じられたこと、活動報告を精力的にブログに書かれていますのでぜひ読んでみて下さい。
 
文京区に限らず、谷根千界隈の地域活動をサポートされている文京区議会議員 浅田やすおさんもブログでレポートしています。
■ 光原寺おにぎり隊(浅田やすおの文京日記
<http://blogs.yahoo.co.jp/asadayasuo/38214675.html>
 
一見ガランとしたこの広場では、たくさんのつながりが生まれ、集まり、拡がっています。

 

66years ago

66年前。
昭和 20年(1945)3月 4日。午前 9時前。小雪がちらつく寒い朝に、不忍通りに沿って B29爆撃機が飛来しました。根津・谷中・千駄木界隈では約 500人以上の死傷者が出ました。
 
千駄木、不忍通り沿いにあった「鹿島湯」付近に爆弾が落とされ、防空壕に避難しながら犠牲になられた 23名を弔う「坂下平和地蔵」があります。
坂下平和地蔵

谷中には、三崎町、初音町四丁目、真島町での空襲による犠牲者を弔う「みしま地蔵」があります。
みしま地蔵
 
真夏の間は造花になりましたが、それ以外の毎月 2回、「スガイ生花店」(谷中銀座)の菅井さんが絶やさず生花を手向けられています。
 

コンクリート塀 JR日暮里駅の 12番線(京浜東北線下り)の電車を待ちながら西側のコンクリート塀(谷中霊園側)を見ると、看板が設置されていない場所があります。看板が無い理由は、階段下の立ち食い蕎麦や駅員室が入っている場所で、乗降客が立ち並べない箇所だからです。
露わになっているコンクリート塀に、錆び朽ちた金属製の定礎板が二枚、打ちつけてあります

「土留擁壁」(コンクリート塀)と「乗降場上家」(ホーム屋根)の基礎板のようです。
土留擁壁 乗降場上家
 


土留擁壁 
基礎工  コンクリート造り
上部構造 コンクリート造り
基礎根入 施工基面から1m.1〜1m.6
範囲   5km.572mより 5km.978mまで
着手   昭和29年 8月 7日
竣功   昭和30年 3月 5日
監督   日暮里工事區
施工   株式會社 間組
日本国有鉄道東京工事々務所
 

農学部総合研究棟遺跡見学会 2010年 3/26(金)、27(土)の二日間、東京大学埋蔵文化財調査室が行っている農学部総合研究棟建設予定地での遺跡調査を見学、及び説明する会が開催されています。
建設に伴う遺跡調査について埋蔵文化財調査室が行ってきた研究成果を一般公開し、活動を知られ、理解いただくための遺跡見学会が開催されています。
遺跡からは、明治時代の宅地造成を示す遺構、水戸藩中屋敷の道等を確認しました。江戸時代以前の土器や石器も出土しています。
また以前、武田先端知ビル(浅野地区)建設地より発掘されました弥生土器やガラス玉、明治時代の銃弾も併せて展示しています。(復元された弥生土器を間近に見られます)

東京大学埋蔵文化財調査室」の原 祐一さんによる解説が、一時間毎に行われています。
説明会
 
■ 農学部総合研究棟遺跡見学会
<http://www.aru.u-tokyo.ac.jp/nougakubu_gensetu.pdf>
開催: 2010年 3/26(金)、27(土)
時間: 11:00 - 15:30(雨天中止 )
解説: 11:00、12:00、13:00、14:00、15:00
会場: 農学部総合研究棟建設予定地
主催: 東京大学埋蔵文化財調査室 <http://www.aru.u-tokyo.ac.jp/>
協力: 文京区教育委員会
問い合わせ先: 東京大学埋蔵文化財調査室
* 月〜金(10:00〜12:00、13:00〜16:00)
遺跡見学会は雨天中止ですが、
月曜から金曜日の10:00~16:00(3月中)、遺跡の見学は可能です。
足元と場内で稼動している重機等には十分お気をつけください。
農学部
 

古美術上田上田さんから電話がありました。「面白いものが店に入ったので見に来はりませんか」とのことです。仕事帰りに、買い付けや商談で近頃滅多に開いていない「古美術上田」へ。
上田さんに見せて頂いたのは一枚の木版画でした。
サインはないが、戦前から戦後にかけての昭和に活躍された、奥山 儀八郎[おくやま ぎはちろう]千葉県松戸市)の木版画だそうです。
左上には『谷中村 河童画房 村長 おくやまぎはち郎 画』とあります。
一概に"谷中村"と言っても、栃木県下都賀郡谷中村、東京府北豊島郡谷中村、埼玉県入間郡谷中村とあったそうですし、明治初期の話です。木版画の風景はどうみても大正末期から昭和初期の風景です。村長に作家自身の名をひらがなで記してますから、手慰みか想像で描かれた架空の街なのかもしれません。「・・・それでもなんだか、とても谷根千らしいでしょう?」と、上田さん。
確かに黄昏の街を描いた木版画は、銭湯らしき煙突があります。描かれた看板の文字を辿っていけば、『・・・かんな台』、『・・・下 木工所』、『牛乳』、焼き鳥『いさみや』、『珈琲』『ビールはない』、『河童宗吉』・・・。塀は木造の縦板なのか、トタン塀にも見えます。なんだかね、ちょっと以前の谷根千みたいな風景ですよ。
ほら、ほら。一番奥には『・・・トメパン』て見えます。きっと「オトメパン」のことでしょう。とすれば、この風景は、根津の路地から言問通り(中華『オトメ』のある場所)を眺めた風景か、千駄木の路地からオトメ通り(現在のよみせ通りの南寄り)を眺めた風景をもとに描いているのかも知れませんね。

「オトメ」については、地域雑誌『谷中 根津 千駄木』にとても興味深い記事があります。以前にナンダロウさんのブログにも紹介されていましたので引用します。(『谷中 根津 千駄木』バックナンバーを読まれると、詳細に取材された記事が載っています。)
■ 地域雑誌『谷中・根津・千駄木』89号(谷根千ねっと
特集/豊かな時間の過ごし方 町で遊ぼう大人の工作
・根津銀座のオトメ、そしてみんな食べてたオトメパン -- 落合光さん
http://www.yanesen.net/archives/backnumber/089/
 


■ 2008-04-02 〈オトメ〉と〈さおとめ〉の縁を知る
<http://d.hatena.ne.jp/kawasusu/20080402>
 
・・・『谷根千』(特集は「大人の工作」)をパラパラ見ていて、「根津銀座のオトメ」という記事が目につく。〈オトメ〉は何度か行ったことがあるが、中華料理店にしては変わった名前だと思っていた。この記事によれば、店主は終戦後、人と一緒に「オトメパン」というパン屋をやっており、本店のほか売店が4つあったという。本店はよみせ通りの南寄りにあり、そこは「オトメ通り」と呼ばれていたとも。オトメパンをめぐるあれこれも興味深いが、末尾に、動坂の喫茶店〈さおとめ〉の店主がオトメパン創業者の兄だとあり、驚く。オトメとさおとめ......。なるほどなあ。地元以外のヒトにはまったく興味ないだろうけど、そんな知識がひとつ増えるたびに、この地域に住んでヨカッタと思う。やっぱり『谷根千』はスゴイ雑誌だ。
 
ナンダロウアヤシゲな日々』より抜粋。

 
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奥山儀八郎はニッカウヰスキー創業初期のポスターやラベルもデザインほか、幅広く作品を制作されていたようですが、谷根千地域とどのような関係があったのか、『河童画房』とは何なのか、興味は尽きません。

風船あられ工場の秘密

あられ今日は 3月 3日の桃の節句でしたね。
雛霰[ひななあられ]といえば、関東では大粒で色とりどりのポン菓子のこと(雛あられ - Wikipedia)で、醤油で味付けられた「あられ煎餅」とは別物です。
関東風ひなあられは「おいり - へびみち日記」に近いかも知れません(ポン菓子 - Wikipedia)。
「風船あられ」とは、つまり関東風雛あられに入っているような、大きめのポン菓子のことです。
現在、松坂屋 上野店・新館(上野広小路)が建てられている場所に、明治中頃からはじめた「秀英舎」というあられ屋が戦時中頃まであったそうです。揚げ煎餅、五色あられなどとともに、風船あられが売られていました。当時は浅草の雷おこしか、上野の風船あられか、というくらいの名物だったそうです。
 
関連リンク:
■ 地域雑誌「谷中・根津・千駄木」18号(谷根千ねっと
・根津藍染町から谷中真島町へ抜ける道 - 渡辺治右衛門(JIEMON)て誰だ
http://www.yanesen.net/archives/backnumber/018/


その「風船あられ工場」の名残が『 あ ら れ 』の看板です。
あ ら れ
 
以前も地元の方に紹介して頂いて写真を撮っていたのですが、本日ちょうど家のご主人がいらっしゃって、ありがたいことに再び、敷地の中から写真を撮らせて頂くことができました。
近くから見ても繋ぎ目がない立体の文字看板は、素材がわかりませんでした。
 
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今日この場所で、ウグイスのさえずりを聴きました。
 

上野公園に、幕末の上野戦争に於いて戦死した彰義隊士を祀る墓があります。
その墓に備えられた石灯籠です。
通常、火袋に三光(月・星・太陽)の型が抜かれた石灯籠が多いのですが、この石灯籠の火袋には、鳥を型どり抜かれています。
『ツキヒーホシ・・・』と啼き声が聞こえる三光鳥[サンコウチョウ]でしょうか。
彰義隊の墓
 
上野山 うごかず 去らで 杜鵑[ほととぎす]
啼く音 血をはく 五月雨のころ
 
『斃休録』 天野 八郎

 
実質、彰義隊の指揮を執ったとされる天野八郎の句です。
ホトトギスは『血を吐くまで鳴き続ける』と言われたそうですが、武士や漢の生き方をなぞらえているのでしょうか・・・。
 
下記リンクの記事を読みますと、『上野公園内の彰義隊資料室で見た女性の手紙』を解読されています。見せしめに放置された隊員の遺体を収納させてほしいと、勝海舟にあてて懇願する手紙だそうです。その手紙の結びに、天野八郎の句が使われています。
■ S-5 戊辰戦争-敗者のその後(さわらびYの歴史・民俗・考古探索ノート
http://sawarabituusin.cocolog-nifty.com/notebook/2006/11/11_36d2.html
 
ホトトギスは、彰義隊を象徴する鳥なのかも知れません。
ホトトギス
 
時鳥[ほととぎす] 不如帰[ほととぎす] 遂に 蜀魂[ほととぎす]
 
 勝 海舟

 


尾形 乾山[おがた けんざん] 墓碑・乾山深省蹟[けんざんしんせいせき]
台東区上野桜木 1-14-11
 
 尾形乾山は、琳派の創始者である画家・尾形光琳の弟である。寛文 3年(1663)京都で生まれた。乾山のほか、深省・逃禅・習静堂・尚古斎・霊海・紫翠の別号がある。画業のほかにも書・茶をよくし、特に作陶は有名で、正徳・享保年間(1711~1735)、輪王寺宮公寛法親王に従って江戸に下り、入谷に窯を開き、その作品は「入谷乾山」と呼ばれた。
 寛保三年(1743)81歳で没し、下谷坂本の善養寺に葬られた。しかし、月日の経過につれ、乾山の墓の存在自体も忘れ去られてしまい、光琳の画風を慕う酒井抱一の手によって探り当てられ、文政 6年(1823)、顕彰碑である「乾山深省蹟」が建てられた。抱一は江戸琳派の中心人物で、文化 12年(1815)に光琳百回忌を営み、『光琳百図』『尾形流略印譜』を刊行、文政二年には光琳の墓所を整備するなど積極的に尾形兄弟の顕彰に努めた人物である。墓碑及び「乾山深省蹟」は、上野駅拡張のため移転した善養寺(現・豊島区西巣鴨 4-8-25)内に現存し、東京都旧跡に指定されている。
 当寛永寺境内の二つの碑は、昭和 7年(1932)、その足跡が無くなることを惜しむ有志により復元建立されたものである。その経緯は、墓碑に刻まれ、それによると現・善養寺碑は、明治末の善養寺移転に際し、両碑共に当時鴬谷にあった国華倶楽部の庭へ、大正 10年(1921)には公寛法親王との縁により寛永寺境内に、その後、西巣鴨の善養寺へと、三たび移転を重ねたとある。なお、入谷ロータリーの一隅に「入谷乾山窯元碑」がある。

 
尾形乾山墓碑・乾山深省蹟

 
 正保 4年(1647)に後水尾天皇の第 3皇子守澄法親王が入山し、明暦 1年(1655年)に「輪王寺宮」と号して以降、代々の輪王寺宮が寛永寺住職を勤めます。
解説板によると、尾形乾山は、後西天皇の第 6皇子公辨法親王[こうべんほっしんのう]輪王寺宮に従って、江戸に来ました。
 輪王寺宮は、上野の森の鶯の啼き始めが遅く、訛りがある、と嘆き、尾形乾山に命じて京から美声で"はや鳴き"の鶯を 3,500羽取り寄せ、放鳥した、との言い伝えがあります。このため上野寛永寺を中心に、根岸〜谷中周辺の鶯は美しい声で啼き、江戸府内でも最初に啼き出す"初音の里"として評判になりました。
江戸時代、谷中から千駄木の辺りまで、上野の森から根岸辺りまでは、同じく「鶯谷」と呼ばれ親しまれました。
明治以降、谷中側には「初音」が町名に残り、根岸側は駅名に「鶯谷」が残りました。
 

バラック改築 2009年、8月に閉店しました「長命源 本舗」に、リニューアルのため、11/3を以ていったん閉店(閉店セール開催中、11/1の写真)しました「nuicoto[ヌイコト]」の建物です。二店舗を合わせて改築し、「nuicoto[ヌイコト]」店主のご家族が経営される雑貨卸問屋「松野屋」の直営店として生まれ変わる予定です。
現在、その改築工事を地元の工務店「坪井建築工事」が請け負われています。(先の「nuicoto[ヌイコト]」店舗の内装も坪井さんの仕事でした。)
建物はとても古く、終戦直後に建てられたバラック小屋ではないか、との話も噂では聞いていました。実際に坪井さんらが内装を外してみると、奥の一部は戦前〜遙か明治時代らしき(参照: ぬうこと あむこと >> 只今改装中)名残があり、手前の大部分は終戦前(戦時中)頃に建て増したバラック小屋だったようです。戦後60年以上修理・改築されながら生き残った建物を、取り壊さず、まだ修復しながら再生活用して店舗にされるそうです。

基礎は朽ちて土台を失いかけ、屋根は穴が開いて空が見え、壁は朽ちて風が入る・・・。戦時中に建てられたと思われます「バラック小屋」に、建築物としての歴史的価値とか民俗学的な意味は見出さないでしょう・・・。だって、こんな廃材を寄せ集め、とりあえず急場しのぎでこしらえた、天井です。しかしこの天井を眺めていると、国の将来もわからぬまま、食糧や物資が乏しい中でも雨風だけはしのごうとする、必死に生活された時代が見え隠れしているようです。
バラックは、解体して建て直した方がどんなに手間がかからず、安全なことか。家主さんにとっても、店子になられる松野屋さんにとっても、工事を請け負う坪井建さんにとっても、そんな思いもあるはずですが、あえて壊さず、直して使う。もちろん改築予算のこともあるのでしょうが、手間をかけて工夫をした方が、面白いじゃない?という様子でした。
バラック改築
 
天狗倶楽部と富士書房 そうそう、「坪井建築工事」の坪井さんらが、内装を壊していたら、「nuicoto」と「長命源 本舗」の外壁と内装の隙間の壁に、このような「看板」が出てきました。終戦前か後なのか、このバラックが建てられて初期に開いていたと思われる店舗らしき名称。「看板」といっても、漆喰の壁にペンキで文字が書かれているだけですが・・・

一箱古本市の歩きかた

本と散歩が似合う街 不忍ブックストリートの発起人である、南陀楼綾繁さんが書き下ろした『一箱古本市の歩きかた (光文社新書 433)』が発売されました。
一箱古本市の歩きかた
 
 2005年、谷根千界隈の街中を会場に第一回「一箱古本市」が開催されました。以降、"ひとり一箱の古本店主"をアイデアを軸に、古本を介して人や街をつなぐイベントとして、街の古書店、新刊書店、個人のボランティア・スタッフら協力者によって、企画・運営されています。本書では「一箱古本市」の背景や、ブック・イベントの実践法から、全国各地のブック・イベントの特色、関わり合う人たちを数多くの写真とともに描いています。 
 現在、「一箱古本市」は、年に二回(春・秋)開催されています。
私個人としては、本への関心度や日程(雨天順延を考慮して土曜開催が多い)もあり、「一箱古本市」開始当初は、ほとんど見られませんでした。ここ何年かは祝日開催だったり、関連イベントが増えて、本に関心がない私も、イベントを見られる機会が増えました。
「一箱古本市」に関わる方々のブログを読んでいると、実に楽しく、本や街や人がつながり、世界がひろがっていく様子が楽しいのです。『一箱古本市の歩きかた』を読むと、ブック・イベントを通じて、全国の街や人の繋がる様子や理由が、よくわかります。来年は、(仕事で出かけている土曜でなければ・・・)できるだけ多くの"一箱"を覗いてみよう、と思いました。
 
■ 2009-11-17 本日発売です(ナンダロウアヤシゲな日々
http://d.hatena.ne.jp/kawasusu/20091117
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一箱古本市の歩きかた (光文社新書 433)
一箱古本市の歩きかた (光文社新書 433)
 

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