歴史2

夏萩 江戸の頃、"蛍"と"萩"で知られ、「萩寺」とも呼ばれていた谷中・宗林寺の山門から本堂へ続く道に植えられている夏萩が 6月初めから、徐々に咲き出しました。夏萩とは別名で、一般には「ミヤギノハギ(宮城野萩)」と呼ばれているそうです。「ミヤギノハギ(宮城野萩)」の名の通り、宮城県の県花であり宮城県のシンボルマークは"ミヤギノハギ"を図案化したものです。

水戸藩と向ヶ丘弥生と東大と

 以前にも書いたように、向ヶ丘弥生(現・弥生 1、2丁目)を語るときに切っても切り離せないのが、東京大学埋蔵文化財調査室の研究成果です。
 弥生土器を含む弥生時代と水戸藩中屋敷があった頃の江戸時代。そして射的場や浅野侯爵邸があった頃の明治以降。これらの研究成果の殆どが東京大学キャンパス内の開発に伴う埋蔵文化財調査室の活動(発掘調査と文書調査)によるものです。これら研究成果の一端を専門家以外の私達が知ることが出来るのは、「谷中 根津 千駄木」編集部による取材や、同誌へ(寄稿を含め)協力されている、原祐一さんを始めとする埋蔵文化財調査室の報告によるものです。

 かつては東京大学医学部&附属病院の象徴であり別称でもあった「鉄門」は、医学部&附属病院関連の団体やサークルの俗称(もしくは愛称)として受け継がれ続けました。医学部同窓会は「鉄門倶楽部」であり、医学部のサークルには「鉄門○○部」といったように決まって"鉄門"が使われています。
 2006年 6月、東京大学医学部及び附属病院の創立 150周年記念事業の一環として、無縁坂から龍岡門へ至る途中に「鉄門」が再建されました。
鉄門


鉄門

 東京大学医学部と附属病院の創立は安政 5年(1858)、神田お玉ヶ池の川路聖謨[かわじとしあき]の屋敷地に開設された種痘所にさかのぼる。種痘所は類焼により同年、下谷和泉橋通りに移転した。種痘所の門塀は厚い板を鉄板で囲い、鉄板の間を頭の丸い鋲釘で打ち付け真っ黒に塗ってあったので、江戸の人々は種痘所を「鉄門」と呼んでいた。種痘所は西洋医学所〜医学所〜医学校〜大学東校〜東校〜東京医学校と改称され、明治 10年(1877)に東京大学医学部となった。
 東京医学校は明治 9年(1876)に本郷に移転した。本館は時計台のそびえる洋館で、現在の附属病院外来棟玄関の辺りに建てられた。正門はその向かい、現在の南研究棟(通称・赤レンガ)の位置(本地点より西に約 30メートル)に設置された。移転当初は種痘所の門扉も使用されたが、やがて格子模様の鉄製扉に代えられた。
 当時、医学部正門は本郷キャンパスの正門であった。明治 17年(1884)に法・文学部が、翌年理学部が神田一ツ橋から移転してきたことにより、共通の公式門として本郷通り側に正門が設けられ、以後、医学部正門は鉄門と呼ばれるようになった。しかしながら、大正期に鉄門前の民有地が構内に取り込まれたため鉄門は撤去された。
 東京大学医学部の創立 150周年を記念し、鉄門をゆかりのある無縁坂上に再建した。末永く多くの人々に愛されることを願うものである。

 東京大学医学部・医学部附属病院

旧・駒込林町の名残り

 旧・町名の名残、「林町ガレージ」。写真右手が銀行通り(実際に銀行があったわけではなく、明治末期に銀行の頭取が多く住まい、坂上の見晴らしの良さからか千駄木の中では高級住宅が多い地域です)。道沿いには団子坂へ向かって、「高村光太郎(と智恵子)旧居跡」〜「宮本百合子ゆかりの地」〜「旧安田邸」〜「千駄木の郷(特別養護老人ホーム)」〜「汐見地域活動センター」(〜団子坂を挟んで「鷗外記念室」)と、住宅や各種施設などに混じって点々と建ち並んでいます。写真手前、銀行通りを道坂方向へ進むと、千駄木小学校の先に「虫の詩人の館」があります。左の道は狸坂から不忍通りへ下る道。途中には「半床庵」があります。
林町ガレージ


旧駒込林町(昭和 40年までの町名)
 雑木林の千駄木山のうちで、千駄木御林(おはやし)と称した地である。上野寛永寺創建の後、この林地を同寺の寺領とし、将軍家霊廟の材木を供給した。
 延享 3年(1746)開墾して畑となりその後、宅地を設けて町屋となった。御林跡と称えて、下駒込村に属していたが、明治 2年(1869)分かれて駒込林町と改めた。
同 24年(1891)元駒込村のうち、団子坂、上笹原を併合した。
 同 44年(1911)には千駄木をとり駒込林町と改称した。町名は武蔵野の面影を残す雑木林から命名された。

 文京区

谷中霊園

桜並木


谷中寺町と谷中霊園

「寺院の屋根の下に谷中の町がある」という表現が大袈裟でないほど寺が多く、その数は七十数軒にもなる。
 寛永年間(1624 - 43)、上野寛永寺の子院がこの高台に建立されたのが谷中寺町の始まりである。それ以前は鎌倉時代創建の感応寺(現天王寺)ほか数える程しか寺院はなかった。
 そして、慶安年間(1678 - 51)、江戸府内再開発という幕府の施策で、神田辺りの寺院が谷中に移転してきた。また、明暦の大火(1657)の後も、江戸府内の消失寺院がかなり移ってきた。寺の門前に町屋が形成され、また参詣にくる人で賑わい、庶民の行楽地となったのもこの頃である。
 幕末の慶応 4年(1868)、上野戦争の兵火は谷中を襲い多くの寺院が焼失したが、その後再建され、震災・戦災にも遭わず、昔ながらの情緒をもった寺町を今日に残している。
 谷中霊園は、明治 5年(1872)、旧天王寺境内の一部を官有とし、それに天王寺墓地、徳川墓地の一部などをあわせた谷中墓地がその始まりである。そして明治 7年(1874)、東京都の公共墓地として発足した。東京の三大霊園の一つに数えられ、広さ約 10万平方メートル、現在の墓地使用者は六千余りである。
 幕末、維新以降の著名人の墓碑が数多くある。

     台東区教育委員会

谷中の桜

050407_sakura2.jpg 初代歌川広重の筆による「名所江戸百景」には日暮里寺院の林泉が描かれています。


 江戸のころ日暮里は、境内に林泉を構え、花木を植えた、庭の美しい寺院が多く連なる行楽地でした。「花見寺」と呼ばれた寺が並び、お互いに庭園美を競い合って、お花見の時期には沢山の人で賑わいました。

● 谷根千の歴史

「歴史」
 街々を歩いていますと、土地にまつわる解説板を見かけます。また、ふと疑問に思ったことを軽い気持ちで読み聞きしていくと、今までは見ようともしなかった分厚い背景が現れることが少なくありません。
 勉強不足による誤解や間違いが多々あると思われますので、ご指摘やご叱咤いただければ幸いです。

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